昭和四十八年四月十三日 御神訓


 「一、要心せよ。我心の鬼が我身を責めるぞ。」


 要心せよ、要心をすると云うこと。人間には誰にも良心と云うものが有ります。良心の呵責で苦しむ場合があります。これは良心が有るのは人間だけだと云われております。人間は良心があるからこそ万物の霊長だと云われておる。
 ですから、私共が常日頃、本当に自分で自分の心が拝めれる様な稽古をしておきませんと、自分の心の中に、いわば恐ろしい心、云うなら鬼の様な心、汚い心やら恐い心やらにさい悩まれます。苦しまなければならん。
 だからそれはです、私は当然のことだと思うのですよ。悪いことをする、だから良心の呵責に苦しむということ。だからそういう心を改めていく。取り除いていくと云うところに信心がある訳ですけれども、この要心せよと仰っておられるところはね、例えば、そうでもないのに自分と云う者を苦しめる場合がある。
 又の御教えにね、「我心で我身を生かすこともあり殺すこともある」と、云った様な御教えが有ります。
 本当云うたら、それは生かすべき事、御礼を申し上げるべき事なのに、そんなら心を苦しめておると云う様なこともやはり有るのです。だから、そういう意味で要心せよと仰っておられるのだとこう思うのです。
 「要心せよ、心の鬼が我身を責める」
 只自分の心を酷に、例えばさい悩むと云うかねえ、苦しめると云う様な事がです、成程そこからしみじみとした敬けんなお詫びと云うことも出来るのですけれどもです、御礼を申し上げねばならないことの場合もあるのです。 教主様の歌集の中にこういうお詠が、「みじめぞと思う思いの度を越えて、いよいよみじめさ深まりてゆくか。」
 これなんかは、自分の心と云うものを、自分の様なみじめな者は居らん。自分で自分をみじめにしていく様な思いがいよいよ深まっていく様なことがあります。それでは・・・・そういうなのが度を過ぎると、いわば世の中をはかなんで自殺と云った様なことにすらなりかねない。 又、次の御詠に、
 「人をしも軽く見るなと戒めし、御教え思う吾も人なり」
 成程人を軽う見てはならなけれども、自分自身もやはり人だと。だから自分自身も、いわゆる神の氏子としての頂き方が出来にゃいけん。自分も軽う見てはいけないと。
 素晴らしい、深いこれは連作だと思うのですよねえ。教主様のこれは二つのお心の状態をこの様に詠い上げておられるんだと思うのです。
 人を軽う見てはならない様に、自分自身も神の氏子としての頂き方。惨めな人間ではない、尊い人間だと云う様な頂き方、この両面が必要だと、私共にはこの両方がです、車の両輪の様にあらなければならないと云う事なんです。
 私は昨日岡山から豊美達が夫婦で昨日の朝こちらへ着きました。それで今日はそんなら久留米に夕食にでも行こうかと言いよりましたら、家内が今日はあなた良子さんが誕生日ですけんで、どうぞあの人も連れて行って下さいとこう云う訳です。そうかそんなら、それにあやからして貰うて、良子が誕生日と云うならあの人達夫婦も誘うて行こうと云うので娘婿の車で私とも五人乗られますから五人で参りました。
 折角行くなら何か美味しいものを、洋食がよいか、支那料理がよいかとまあ日本食がよいかと車の中で相談して行った。そしたら勝彦が、最近しゃぶ鍋を大変美味しく食べさせる所がある。だからそこへ行こうと、あそこは高級な店ですからちった高かろうけれども、まあ一人千円か千五百円みとったらよかろうと云うわけです。
 私は家内に「そんなら一万円持って行きゃいいだろうけれども、まあ他所で金が足りんといかんから、二万円ばっかりやっとけ、そしてから余ったら返えさんのと言うてやっとかんの」と、言うて家内に言うとりましたから、やっぱ二万円やっとった様です。
 それは成程、本当にあんな美味しいしゃぶ鍋初めて頂きました。ところがそのお勘定見てから青うなって仕舞うた。たまがった、二万二千円取られた。五人ですよ、お酒は私だけしか飲まんのです。婿は運転せんならんから飲みきりませんし、まあ云うなら私と豊美くらいのこと。そういう様な訳で帰らせて頂いた。そしてまあ私共にとっては少し贅沢過ぎる様なお金を使わせて頂いた事が。
 それで帰ってからその事を神様へお詫びをさせて頂いておりましたら、そこの新館の廊下のすぐそこんところへ大きな壺が置いてあるでしょう、それから向こうの方へもいろんな飾りの壺が角々に置いてある。あのことを御心眼に頂いた。云うならば私の好きなもの、それがね、毎日毎日贅沢すると云うのではない。その云うならば曲がり角曲がり角とでも申しましょうか、適当な時にはもうそれこそ、人のしきらん様な贅沢も神様がさせて下さってある。角々にそういう例えば、壺がある様にそれは神様が許されてそういう贅沢もさせて頂いたんだと。
 私はお詫びをしよったけれども、それを頂いてあただにこれは御礼を申し上げねばならない事だと気が付いた。
 ですから、お詫びをすると云うことは自分をいわば、苦しめる事、ああこれは使い過ぎだと自分を苦しめること。けれども御礼を申し上げると云うことは、これは有難いと云うこと。
 私共の日々の中にです要心しませんと、御礼を申し上げねばならないことに、かえって反対に自分で自分の心を苦しめておると云った様な事があるのです。
 要心せよ。我心の鬼が我身を責めるぞ。と
 成程要心しなければかえっておかげの頂けない心の状態になる様なことが有りますから、おかげを頂かなければならない。
 それと今日の例えば、教主様のこの御教えとを併せて頂いて、いよいよ信心の深さと云うか、勿論手前のところで云う自分が悪いことをして居る、だからその良心の呵責で苦しむ。これは成程我身を責めることになります。だからこそ、改まらなければいけないと云うのです。
 だからそういう信心をさせて頂ながら、例えば今度は自分の心を苦しめんでもよい事に苦しめておる様な場合が有るのです。
 そういうところを要心せよと教えて下さったんだと思うですね。 どうぞ。